武士のあるべき姿を説いた「葉隠」がある。「老いた人の経験談を老人の愚痴だと敬遠してはいけない。得難い教えが沢山ある。長い人生の経験を積んだ人の話は、かりに自分が知っていることでも、つつしんで聞かなくてはいけない。」と、若者をさとしている。反面なぜ、老人の話が若者に嫌がられるのかも教えている。「くどさとひとりよがりをさけよ」「高飛車をつつしめ」。
私も既に老境に入りました。この教えを片隅において書くつもりですが、御無礼の段はご容赦ください。
<結婚式に招待されて>
バスリ・ハワヌディ氏のお嬢様の結婚式。氏はマカッサルのハサヌディン大学長を経て、現在(平成13年12月)は国会議員。ワヒド大統領の下で福祉大臣を務められた。とにかく盛大な結婚式。披露宴の来客は2千人を超すという。
花嫁は勿論、来客の女性の民族衣装のあでやかさに目をうばわれる。
各部族によって色が統一された揃いの衣装で着飾った女性集団。静々と入場される場面は実に迫力があり圧倒される思いだった。日本の庶民の間の結婚式をもとに想像していたイメージとはかけ離れた規模の盛大な夢のような結婚式であった。
二日目の結婚の儀式の折は私達も借り物の衣装ながら、ラジャー(王様)の一統の服装をして参列した。
<旅の発端>
▼第2の故里
年若くして私は、戦争中に丸2年インドネシヤにいた。終戦はニューギニアの西、濠北のバンダ海に浮かぶ、モルッカ諸島のアンボンで迎えた。そこで、インドネシヤ人を40人ほど使って小さな農場を経営していた。そのアンボンに行く前に、セレベス島のマカッサルに約半年いた。
日本を出て度々米潜におそわれ、度重なる空襲を受けながらも命はながらえた。マカッサルとアンボンの地は、私にとって第2の故里になっている。
しかし、今、アンボンは3〜4年前から宗教戦争が続いている。
同じインドネシヤ人が、イスラム教徒とキリスト教徒に分かれて悲惨な殺し合いを繰り返している。だから渡航できない。
▼念願のインドネシア紀行
私達の戦友会が発行している「浩養会報」に、時々、戦友諸兄のアンボン訪問記が掲載される。それを読むたびにうらやましさと懐かしさで胸が締め付けられるような思いをしてきた。私も一度は行ってみたいと思い暮らしてきた。しかし、現職の身では望むべくもないことと諦めていた。
数年前、広島の戦友から電話があった。
「広島大学に、マサッカルから留学している学生が、佐賀の“吉野ヶ里”を見たいといっている。世話してくれ。」マカッサルは私にとっても懐かしい所。それに、心がけて復習を続けている「マレー語」(インドネシアとマレーシアは共通の言語)の勉強にもなることと快諾する。
数日後、佐賀駅にマイカーで迎えたのがインドネシアの好青年「アクバル」さんだった。「吉野ヶ里」を案内し、昼食を共にする。豚肉の入った料理は駄目なので「エビフライ定食」にした。その時、彼が、このエビはマカッサルから来たかもしれないといった。私が変な顔をすると、マカッサルには、エビの養殖場がいっぱいあって、大部分が日本へ送られるといった。
帰りは鳥栖駅に送り、「小城羊羹」を持たせた。次の年は唐津と名護屋城を案内した。
そのアクバルさんから、今年9月、広島の戦友を通じて、結婚式の招待状が届いた。願ってもないこと。妻に一緒に行こうと誘った。ことわられてしまった。
実は今年4月、妻を連れて5泊6日の中国旅行をした。これは長年の懸案であった。退職したらすぐ北京と万里の長城へ連れて行くと約束していた。
武内小の校長のとき、教職員代表友好訪中団で訪れた所である。
武雄中学校を定年前に辞めて、北方町の教育長に就任したためその約束は中に浮いていたのである。15年たってやっと実現したのだった。
ところが体力が落ちていて、若者向きのスケジュールは70を過ぎた妻には無理であった。北京では夜の「京劇」鑑賞を途中でやめてホテルへ連れ帰ったりした。今回の日程は12日間である。それに、インドネシアは「蛇」が出そうだから一人でどうぞという。
<壮行の宴>
出発にあたって、広島市在住の「井上・高島・土屋」の戦友諸兄に壮行の宴を催していただいた。有難さが身にしみる。戦友ならではと感謝。場所は大会でおなじみの弥生会館。マカッサルからの留学生一家も参加された。
回想記▼東京帝国大学附属田無熱帯農業幹部要員養成所
海軍省の委託学生として全国から集まった同期生は120名だった。
午前中は大学の先生方の講義。午後は農業実習の毎日であった。
ある日のこと、マレー語の授業が終わり宿舎にもどる中庭で、頓知の良い上田君が「プルカタン・プルカタン・ディバワ・イニ」と言った後、「ペコタン・ペコタン・ハラヘッタ」と叫んだ。これが食欲旺盛な若者たちの偽りのない毎日だった。隊員皆があこがれた小関隊長が着任されてから食糧事情は好転した。海軍省にかけあっていただいたという。その頃からずっと今も尊敬申しあげている。
・終了式 昭和19年6月30日は養成所の終了式だった。佐々木農場長の式辞の後は、修了証書の授与。トップに私の名前が呼ばれ自分の耳を疑った。横の友におされて返事をし前に出た。佐々木農場長から大きな修了証書をいただいた。いつもは米に麦・大豆入りの三穀飯だったが、その日の昼食は「赤飯」だった。それもいつもの量より多かった。かみしめているうちに胸が熱くなった。話し声もなくて妙に静かであった。誰もが同じく、それぞれの思いにふけっていたのだろう。120名の同期生の中で修了証書をもらえたのは98名だった。22名は後期にまわされた。
・壮行式 翌、7月1日、壮行式が農場本部の前庭で行われた。佐々木農場長の「壮行の辞」は前日の終了式の式辞よりずっと私の心をうった。謹厳な農場長の目に光るものを見受けた。胸がまた熱くなった。
修了生98名を代表して私が答辞を述べた。
前の晩、燈火管制の薄暗い電燈の下で、一心に考え書きあげた答辞。
終わりのほうだけは覚えている。
「東大田無養成所で学んだ誇りを胸に、先生方の教えを心の糧として栄えある使命の達成に全力を尽くします。壮行式有難うございました。お世話になりました。では只今から元気で行きます。」「行って来ます」ではなく「行きます」で結んだのは決意を示すためであった。戦局は重大を告げていた。命を懸けた渡南であった。
編成は2個小隊。第1小隊は私が指揮し、第2小隊は「甲斐忠治君」が指揮して西武線の田無駅へ。高田馬場から中央線に乗り東京駅に下車。宮城前広場に行き「宮城遥拝」。海軍省で物資受領。再び東京駅で乗車。軍港「呉」へと向かった。
午前中は大学の先生方の講義。午後は農業実習の毎日であった。
ある日のこと、マレー語の授業が終わり宿舎にもどる中庭で、頓知の良い上田君が「プルカタン・プルカタン・ディバワ・イニ」と言った後、「ペコタン・ペコタン・ハラヘッタ」と叫んだ。これが食欲旺盛な若者たちの偽りのない毎日だった。隊員皆があこがれた小関隊長が着任されてから食糧事情は好転した。海軍省にかけあっていただいたという。その頃からずっと今も尊敬申しあげている。
・終了式 昭和19年6月30日は養成所の終了式だった。佐々木農場長の式辞の後は、修了証書の授与。トップに私の名前が呼ばれ自分の耳を疑った。横の友におされて返事をし前に出た。佐々木農場長から大きな修了証書をいただいた。いつもは米に麦・大豆入りの三穀飯だったが、その日の昼食は「赤飯」だった。それもいつもの量より多かった。かみしめているうちに胸が熱くなった。話し声もなくて妙に静かであった。誰もが同じく、それぞれの思いにふけっていたのだろう。120名の同期生の中で修了証書をもらえたのは98名だった。22名は後期にまわされた。
・壮行式 翌、7月1日、壮行式が農場本部の前庭で行われた。佐々木農場長の「壮行の辞」は前日の終了式の式辞よりずっと私の心をうった。謹厳な農場長の目に光るものを見受けた。胸がまた熱くなった。
修了生98名を代表して私が答辞を述べた。
前の晩、燈火管制の薄暗い電燈の下で、一心に考え書きあげた答辞。
終わりのほうだけは覚えている。
「東大田無養成所で学んだ誇りを胸に、先生方の教えを心の糧として栄えある使命の達成に全力を尽くします。壮行式有難うございました。お世話になりました。では只今から元気で行きます。」「行って来ます」ではなく「行きます」で結んだのは決意を示すためであった。戦局は重大を告げていた。命を懸けた渡南であった。
編成は2個小隊。第1小隊は私が指揮し、第2小隊は「甲斐忠治君」が指揮して西武線の田無駅へ。高田馬場から中央線に乗り東京駅に下車。宮城前広場に行き「宮城遥拝」。海軍省で物資受領。再び東京駅で乗車。軍港「呉」へと向かった。
魔のバシー海峡
軍港「呉」で乗船したのは「浅間丸」であった。1万8千屯の豪華客船の巨体を見て喜んだのは束の間、先任将校の訓示を聞いてがっくり。23隻の大輸送船団だがこのうちの3分の1が無事マニラに着けば成功であると考えられている。従って乗船者の諸君も「対潜哨戒」に協力を。その上浅間はアメリカの潜水艦長に「10万弗の懸賞」がついているという。大変な船に乗ったぞとささやき合った。退避訓練を繰り返しながら船団は高雄についた。
いよいよ魔のバシー海峡である。日本の輸送船の墓場と聞いた。出航して間もなく時化だした。低気圧の中に入ったらしい。巨大な浅間の船体がゆれにゆれる。上甲板に怒涛がおおいかぶさる。乗船者のほとんどが船に酔う。吐いて吐いて胃液を吐く。その横を乗組員が笑って通る。「これくらいゆれないと飯がうまくない」とうそぶく。こうした中で午後8時、臨時ニュースが報ぜられた。
大本営発表は「サイパン島守備軍玉砕」だった。とたんに茫然として息をのむ。兄が死んだ。兄はサイパン島の守備軍の最高指揮官・斉藤大将の副官だった。船酔いはいっぺんにさめた。その夜の長いこと。ゆれによる浅間の船倉の隅で天井を見つめ、夜を明かした。
いよいよ魔のバシー海峡である。日本の輸送船の墓場と聞いた。出航して間もなく時化だした。低気圧の中に入ったらしい。巨大な浅間の船体がゆれにゆれる。上甲板に怒涛がおおいかぶさる。乗船者のほとんどが船に酔う。吐いて吐いて胃液を吐く。その横を乗組員が笑って通る。「これくらいゆれないと飯がうまくない」とうそぶく。こうした中で午後8時、臨時ニュースが報ぜられた。
大本営発表は「サイパン島守備軍玉砕」だった。とたんに茫然として息をのむ。兄が死んだ。兄はサイパン島の守備軍の最高指揮官・斉藤大将の副官だった。船酔いはいっぺんにさめた。その夜の長いこと。ゆれによる浅間の船倉の隅で天井を見つめ、夜を明かした。
マカッサル空港
空港はマカッサル市とマロス(私たちが一時期駐在した)の中間にあった。飛行機はマカッサル上空を大きく旋回、着陸態勢をとる。窓越しに翼下の風景に見入った。
そこには、若いとき、心に焼きつけた椰子とバナナと燃え立つような緑の原風景があった。田園に遊ぶ水牛の群れ。間もなく着地。タラップを降り大地に立った。感慨一入。胸迫る思いにしばらくたたずむ。青春の一時期を過ごしたこのマカッサル。
華やかさも何もなかった。思い出だけは深く残っている。
よくぞ、74歳のこの身で、生きて再び訪れることができた。有難いことである。
空港の係員が両替しないかとしつこく言うので2万円をだした。返ってきたのは、なんと160万ルピア。分厚い札束で急に金持ちになったような気になった。
空港には広島大学に留学された教授の奥さんがお見えだった。
車は夕日を浴びてマカッサルへ。郊外近くになると「エビ」の養殖場が連なる。ほとんどが日本へ送られるという。養殖場は昔の塩田の跡と聞いて懐かしくなる。塩田といえばわが隊の戦友にとって忘れられぬところである。
連夜の空襲で岸壁近くの宿舎(汽車公司)から、毛布一枚持って退避した所だ。帰るのをやめて一夜を明かしたりした。
夜の空襲は月夜だけだった。月が中天にかかる頃だった。月の出が遅くなると深夜の空襲となる。月が恨めしかった。朝帰りしたら、宿舎のすぐ横に250キロ爆弾が落ちて大穴をあけていた。夜半の塩田行きをやめて近くでとの話は一回で沙汰やみとなった。
そこには、若いとき、心に焼きつけた椰子とバナナと燃え立つような緑の原風景があった。田園に遊ぶ水牛の群れ。間もなく着地。タラップを降り大地に立った。感慨一入。胸迫る思いにしばらくたたずむ。青春の一時期を過ごしたこのマカッサル。
華やかさも何もなかった。思い出だけは深く残っている。
よくぞ、74歳のこの身で、生きて再び訪れることができた。有難いことである。
空港の係員が両替しないかとしつこく言うので2万円をだした。返ってきたのは、なんと160万ルピア。分厚い札束で急に金持ちになったような気になった。
空港には広島大学に留学された教授の奥さんがお見えだった。
車は夕日を浴びてマカッサルへ。郊外近くになると「エビ」の養殖場が連なる。ほとんどが日本へ送られるという。養殖場は昔の塩田の跡と聞いて懐かしくなる。塩田といえばわが隊の戦友にとって忘れられぬところである。
連夜の空襲で岸壁近くの宿舎(汽車公司)から、毛布一枚持って退避した所だ。帰るのをやめて一夜を明かしたりした。
夜の空襲は月夜だけだった。月が中天にかかる頃だった。月の出が遅くなると深夜の空襲となる。月が恨めしかった。朝帰りしたら、宿舎のすぐ横に250キロ爆弾が落ちて大穴をあけていた。夜半の塩田行きをやめて近くでとの話は一回で沙汰やみとなった。
マカッサルの夕焼け
フィリピンのマニラ湾の夕焼けと共に「マカッサルの夕焼け」は世界的にも有名だいう。
赤い夕日が西に傾く。西はジャワ海である。刻々と変わっていくすばらしい色。次第に色を濃くして、西の空と海原が真っ赤に燃える。荘厳な夕焼けいつ見ても心が洗われる。
浩養会広島大会の折、弥生会館の宴に出席されたハサヌディン大学のアクバル先生マカッサルのホテルに訪ねてこられた。ちょうど落日が迫っていた。
「海岸に行こう」と、先に立たれた。後から一行6人がついて出た。
海岸に着き先生が包みを開かれた。マンゴスチンである。アンボンのラテリー牧場で木に登って食べた思い出のマンゴスチン。同行の林田君の望みをかなえさせていただいた。
体全体で夕焼けを眺めている友の顔が赤く染まる。夕焼けの中で食べたマンゴスチンの味はまた格別であった。生涯の思い出となるだろう。
赤く大きな太陽は海原に沈んで行く。立ちつくす人々の心のフィルムに強く静かに焼き付けていく。どれくらいの時間がたっただろう。
あたりに暮色が迫ってくる頃帰り支度してホテルへ向かった。
その時、古い記憶が甦った。
わが隊が危険な岸壁近くの宿舎から「鎌倉通り」の宿舎に移った頃のことである。たしか、上本年明君と鉄村晋二郎(松野)君と私の3人連れ立って外出をした。
帰りは夕焼けのこの海岸通りを歩いた。あまりの荘厳さに3人は赤く大きな太陽が、ジャワ海の彼方に沈み行くのに見入った。思いは故里へ飛ぶ。ジーンと望郷の念が湧く。帰りたい。それを振り払うように防波堤に上がった。思いは同じだったのだろう。3人並んでジャワ海に向かって静かに放水した。
「ふる里」「赤とんぼ」「椰子の実」を歌って帰った。
赤い夕日が西に傾く。西はジャワ海である。刻々と変わっていくすばらしい色。次第に色を濃くして、西の空と海原が真っ赤に燃える。荘厳な夕焼けいつ見ても心が洗われる。
浩養会広島大会の折、弥生会館の宴に出席されたハサヌディン大学のアクバル先生マカッサルのホテルに訪ねてこられた。ちょうど落日が迫っていた。
「海岸に行こう」と、先に立たれた。後から一行6人がついて出た。
海岸に着き先生が包みを開かれた。マンゴスチンである。アンボンのラテリー牧場で木に登って食べた思い出のマンゴスチン。同行の林田君の望みをかなえさせていただいた。
体全体で夕焼けを眺めている友の顔が赤く染まる。夕焼けの中で食べたマンゴスチンの味はまた格別であった。生涯の思い出となるだろう。
赤く大きな太陽は海原に沈んで行く。立ちつくす人々の心のフィルムに強く静かに焼き付けていく。どれくらいの時間がたっただろう。
あたりに暮色が迫ってくる頃帰り支度してホテルへ向かった。
その時、古い記憶が甦った。
わが隊が危険な岸壁近くの宿舎から「鎌倉通り」の宿舎に移った頃のことである。たしか、上本年明君と鉄村晋二郎(松野)君と私の3人連れ立って外出をした。
帰りは夕焼けのこの海岸通りを歩いた。あまりの荘厳さに3人は赤く大きな太陽が、ジャワ海の彼方に沈み行くのに見入った。思いは故里へ飛ぶ。ジーンと望郷の念が湧く。帰りたい。それを振り払うように防波堤に上がった。思いは同じだったのだろう。3人並んでジャワ海に向かって静かに放水した。
「ふる里」「赤とんぼ」「椰子の実」を歌って帰った。
マカッサル市内観光
昔のマカッサルの街はオランダ風の静かで清潔な小都市だった。その印象は強かった。今のマカッサルは発展し百万都市になっている。車も多く通りは人であふれていた。表通りはともかく裏通りはいたるところにゴミが散乱し、側溝から上げたゴミも汚泥も放置され、ほこりっぽい街になっていた。良くいえば活気にあふれた発展途上の街である。
信号機のある交差点は少なく、あっても信号無視の車が多い。そして左折は勿論、右折も上手にこなしていく。滞在中交通事故は見あたらなかった。
日本は信号機の設置が多すぎるのではと思った。
昔の「大和通り」は立派な並木道だった。その街路樹がふたかかえもある巨木となって茂っていたのには驚いた。
「マカッサル港」の岸壁には、大型汽船の姿はなく小型・中型の漁船・運搬船がひしめいていた。
この岸壁から歩い数分の所に「汽車公司」があった。わが隊の最初の宿舎である。今はその跡形もなかったが、思いだけは56年前の昔にさかのぼった。
信号機のある交差点は少なく、あっても信号無視の車が多い。そして左折は勿論、右折も上手にこなしていく。滞在中交通事故は見あたらなかった。
日本は信号機の設置が多すぎるのではと思った。
昔の「大和通り」は立派な並木道だった。その街路樹がふたかかえもある巨木となって茂っていたのには驚いた。
「マカッサル港」の岸壁には、大型汽船の姿はなく小型・中型の漁船・運搬船がひしめいていた。
この岸壁から歩い数分の所に「汽車公司」があった。わが隊の最初の宿舎である。今はその跡形もなかったが、思いだけは56年前の昔にさかのぼった。
回想▼汽車公司 輝く南十字星の下で
「B24」数十機によるマカッサルの大空襲で岸壁の大倉庫が大破炎上した。その後片付けに何日も引き出された。
夜は連夜の空襲。疲れた体で2km近く走って退避。体力の消耗が激しかった。加えて水が悪くアミーバ赤痢にかかった戦友が出はじめた。
その中で「増田誠吾」の病状が特にひどく、やせ衰えて食べ物を口にしなくなった。出身地が同じ九州というだけでなく、私は「増田君」が妙に好きだった。
正義感の強い人で、是は是、非は非とはっきりした物言いはされるが、心は温かかった。
マカッサルは後方兵站基地でまだまだ食糧は充分にあった。
外出者が食べないので食缶には白飯が残っていた。
大型の缶詰の空き缶を「*吹所」にもらいに行った。
このままでは大変なことになる。宿舎の横の空き地にかまどを作り粥を炊いた。流れる煙をを避けて空を見上げた。満天の星だった。ココ椰子の葉越しに、ひときわ輝く星があった。「南十字星」だった。煌く星座に感動した。無限の宇宙の神秘さと美しさに、すい込まれるように見入った。
しばらくして、炊き上がった粥をさげ、増田君の枕元へ行った。
かすれた声で「有難う」とはいったものの眺めているだけ。箸も手にしない。「増田ッ。食べんと死ぬぞ。」叱りつけて口の中におし込むようにして食べさせた。数日はそれの繰り返しだった。
今でも彼は「命の恩人だ」などといってくれる。これまた有難いこと。その頃は、彼は体が弱く、皆と一緒に働けないことを苦にしていた。
しかし、アンボンでは立派に任務を遂行された。
それに、復員後の彼の業績はすばらしい。日刊工業新聞の「編集局長」の時、手紙が届いた。「編集局長室と校長室では、どちらが居心地がいいだろう」と。「校長室がいい」と返事を出した。
3年ほど前は、「そろそろ引退をしないとすり切れてしまうぞ」ときた。
戦友を思ってのこと。誰なればこそと有難かった。
そこで平成12年9月30日、任期満了をもって、任期更新を謝絶した。
“人間・引け際が肝心”。惜しまれてやめるのが最良である。
今、彼は最愛の奥さんをなくして、辛い心境から立ち直る努力をしてもらっている。慰めるすべがないのが悲しい。
夜は連夜の空襲。疲れた体で2km近く走って退避。体力の消耗が激しかった。加えて水が悪くアミーバ赤痢にかかった戦友が出はじめた。
その中で「増田誠吾」の病状が特にひどく、やせ衰えて食べ物を口にしなくなった。出身地が同じ九州というだけでなく、私は「増田君」が妙に好きだった。
正義感の強い人で、是は是、非は非とはっきりした物言いはされるが、心は温かかった。
マカッサルは後方兵站基地でまだまだ食糧は充分にあった。
外出者が食べないので食缶には白飯が残っていた。
大型の缶詰の空き缶を「*吹所」にもらいに行った。
このままでは大変なことになる。宿舎の横の空き地にかまどを作り粥を炊いた。流れる煙をを避けて空を見上げた。満天の星だった。ココ椰子の葉越しに、ひときわ輝く星があった。「南十字星」だった。煌く星座に感動した。無限の宇宙の神秘さと美しさに、すい込まれるように見入った。
しばらくして、炊き上がった粥をさげ、増田君の枕元へ行った。
かすれた声で「有難う」とはいったものの眺めているだけ。箸も手にしない。「増田ッ。食べんと死ぬぞ。」叱りつけて口の中におし込むようにして食べさせた。数日はそれの繰り返しだった。
今でも彼は「命の恩人だ」などといってくれる。これまた有難いこと。その頃は、彼は体が弱く、皆と一緒に働けないことを苦にしていた。
しかし、アンボンでは立派に任務を遂行された。
それに、復員後の彼の業績はすばらしい。日刊工業新聞の「編集局長」の時、手紙が届いた。「編集局長室と校長室では、どちらが居心地がいいだろう」と。「校長室がいい」と返事を出した。
3年ほど前は、「そろそろ引退をしないとすり切れてしまうぞ」ときた。
戦友を思ってのこと。誰なればこそと有難かった。
そこで平成12年9月30日、任期満了をもって、任期更新を謝絶した。
“人間・引け際が肝心”。惜しまれてやめるのが最良である。
今、彼は最愛の奥さんをなくして、辛い心境から立ち直る努力をしてもらっている。慰めるすべがないのが悲しい。
回想▼汽車公司 月の出ない夜
空襲のない月の出ない夜は、夕涼みに汽車公司の屋上に上がった。そこではお国自慢に花が咲いた。
時には人生論をたたかわした。わたしの相手は秋田県の「佐藤斉三郎君」だった。
彼は竹を割ったような性格で、切所に立てば毅然として対処のできる優れた人物である。また、弱い者をかばう義侠心の持ち主だった。
復員後の彼の業績もすばらしい。
時には人生論をたたかわした。わたしの相手は秋田県の「佐藤斉三郎君」だった。
彼は竹を割ったような性格で、切所に立てば毅然として対処のできる優れた人物である。また、弱い者をかばう義侠心の持ち主だった。
復員後の彼の業績もすばらしい。
橋畔の墓標
マカッサルからマロスへの街道をしばらく北上すると街並が切れ田園風景が広がる。マカッサル平野である。黄土色の小型の牛の群れが草をはみ、田んぼの水たまりには水牛が憩う。
しばらく行くと橋がある。その橋のたもとに白木の「墓標」が数本立っていたのを私はおぼえていた。今はない。
マカッサルから退却するオランダ軍と追撃する日本軍が、この橋をはさんで戦った。私は車の中で数珠を取り出し手にかけた。静かに冥福を祈った。
この後ひとりで口ずさんだのが、佐々塚君の詩「友よ」だった。
「友よ」
1、椰子の葉ずれの音を聞きながら
君は安らかに眠っているだろうか
僕が立てた白木の墓標は
もはや形を留めないだろう
三十数年の歳月は夢のように過ぎ
君と歌った南進男児の歌を
口ずさみながら懐かしく思い出している
2、南十字星の星明かりをあびながら
君は静かに眠っているだろうか
サゴの樹海に輝くほたるの光は
今も君を慰めているだろう
三十数年の歳月は夢のように過ぎ
遠いアンボンに君と共にうずめた
僕の青春を静かになつかしんでいる
3、深く透明なバンダ海の底に
君は無心に眠っているだろうか
君と共に沈んだ昭益丸は
今も君を守って横たわっているだろう
三十数年の歳月は夢のように過ぎ
デッキに立って君と語った
青春の思い出を静かにおもいだしている
*昭益丸は1200tの貨物船。私達がマニラ・セブ・バリック・パパン・マカッサル・アンボンと乗船。後には米潜により撃沈される。
このすばらしい詩を作ってくれた四国の「佐々塚利一君」も今はいない。
戦後「佐々塚君」がアンボンを再訪してから既に20年がたっている。
しばらく行くと橋がある。その橋のたもとに白木の「墓標」が数本立っていたのを私はおぼえていた。今はない。
マカッサルから退却するオランダ軍と追撃する日本軍が、この橋をはさんで戦った。私は車の中で数珠を取り出し手にかけた。静かに冥福を祈った。
この後ひとりで口ずさんだのが、佐々塚君の詩「友よ」だった。
「友よ」
1、椰子の葉ずれの音を聞きながら
君は安らかに眠っているだろうか
僕が立てた白木の墓標は
もはや形を留めないだろう
三十数年の歳月は夢のように過ぎ
君と歌った南進男児の歌を
口ずさみながら懐かしく思い出している
2、南十字星の星明かりをあびながら
君は静かに眠っているだろうか
サゴの樹海に輝くほたるの光は
今も君を慰めているだろう
三十数年の歳月は夢のように過ぎ
遠いアンボンに君と共にうずめた
僕の青春を静かになつかしんでいる
3、深く透明なバンダ海の底に
君は無心に眠っているだろうか
君と共に沈んだ昭益丸は
今も君を守って横たわっているだろう
三十数年の歳月は夢のように過ぎ
デッキに立って君と語った
青春の思い出を静かにおもいだしている
*昭益丸は1200tの貨物船。私達がマニラ・セブ・バリック・パパン・マカッサル・アンボンと乗船。後には米潜により撃沈される。
このすばらしい詩を作ってくれた四国の「佐々塚利一君」も今はいない。
戦後「佐々塚君」がアンボンを再訪してから既に20年がたっている。
米潜の雷撃
わが隊は、一度は「昭益丸」に乗船してアンボンへ向かったのである。乗船する時、第4南遣艦隊司令部の参謀から気合をいれられた。「アンボンは食糧難で朝から芋粥食っているぞ。マカッサルにいた時のような気分でいたら忽ちまいってしまう。覚悟していけ。」
出港して2日目、白昼、米潜の雷撃を受けた。波静か。鏡のような紺碧のバンダ海に魚雷3本。クリーム色の鮮やかな航跡を長く引いてぐんぐん迫ってきた。
突然の雷撃。「取り舵いっぱい」、鋭く悲鳴のような号令が響く。船首が左へ「ぐーん」と回わる。前甲板にいたも者がなぎ倒された。緊張と恐怖で頭の中は真っ白。舷側の手すりにすがって立ち上がった。魚雷はすぐ横を走り去った。胸をなで下ろす。「ズシーン」「ズシーン」と腹に響く無気味な振動。護衛の駆潜艇「雉」の爆雷攻撃が始まった。昭益丸は米潜の第2撃をのがれようと全速運転。エンジンの轟音と煙突の濛々たる黒煙の割にスピードは上がらない。じれったくいらいらする。船足の遅い「昭益丸」では仕方のないこと。その時ふと閃いた。
昭益丸は小さく足はのろいが「運」の強い船だ。フィリピンのセブ島沖で真夜中の米潜襲撃に僚船の「柳河丸」(7千屯)は轟沈した。この昭益丸は難を避けた。あの時も雷撃を受けた。多分、今回も・・・と思うと心が落ち着いてきた。
その時、左舷前方の海が激しく泡立ち盛り上がった。米潜が浮上した。
愕然として声が出ない。「雉」の爆雷攻撃がきいたのか。真白い船体に数字が書いてある。距離はどれくらいあったろう。船体の数字が読めた。
只、呆然として見つめた。配置に着いていた乗組員は船首の大砲(明治20年製)の砲身を米潜の方向に向けようとするが動かない。「加勢に来い」との大声で私もタラップをかけ上った。砲身が米潜に向き轟音と共に弾丸が発射された。
固唾をのんで見守る。弾丸は米潜の遥か後方に水柱をあげた。
2発目は近すぎた。米潜はゆうゆうと浮上したまま速力をあげて逃げて行く。
追撃する「雉」が追いつけない。その時、昭益丸に備え付けた「2連装25mm高射機関砲」が「バリ・バリ・バリ」と水平射撃を開始した。米潜に火花が散った。
とたんに、白い船体は急速潜航。またひとしきり爆雷攻撃が続いた。
米潜の魔の手からはのがれたが敵にしたれた以上、空襲は避けられない。
薄暮になって昭益丸は引き返しはじめた。2度目のアンボン行きは軍艦「若鷹」だった。この時は航路を変えた。数年前からの紛争がやっと落ち着いている「チモール島」の西側を通ってアンボンを目ざした。後一日でアンボンという所で、これも前回同様、白昼に雷撃を受けた。このときも大変だったが武運つきず命をながらえた。
昭益丸が引き返し、再びマカッサルに上陸。わが隊はマロスに向かった。
出港して2日目、白昼、米潜の雷撃を受けた。波静か。鏡のような紺碧のバンダ海に魚雷3本。クリーム色の鮮やかな航跡を長く引いてぐんぐん迫ってきた。
突然の雷撃。「取り舵いっぱい」、鋭く悲鳴のような号令が響く。船首が左へ「ぐーん」と回わる。前甲板にいたも者がなぎ倒された。緊張と恐怖で頭の中は真っ白。舷側の手すりにすがって立ち上がった。魚雷はすぐ横を走り去った。胸をなで下ろす。「ズシーン」「ズシーン」と腹に響く無気味な振動。護衛の駆潜艇「雉」の爆雷攻撃が始まった。昭益丸は米潜の第2撃をのがれようと全速運転。エンジンの轟音と煙突の濛々たる黒煙の割にスピードは上がらない。じれったくいらいらする。船足の遅い「昭益丸」では仕方のないこと。その時ふと閃いた。
昭益丸は小さく足はのろいが「運」の強い船だ。フィリピンのセブ島沖で真夜中の米潜襲撃に僚船の「柳河丸」(7千屯)は轟沈した。この昭益丸は難を避けた。あの時も雷撃を受けた。多分、今回も・・・と思うと心が落ち着いてきた。
その時、左舷前方の海が激しく泡立ち盛り上がった。米潜が浮上した。
愕然として声が出ない。「雉」の爆雷攻撃がきいたのか。真白い船体に数字が書いてある。距離はどれくらいあったろう。船体の数字が読めた。
只、呆然として見つめた。配置に着いていた乗組員は船首の大砲(明治20年製)の砲身を米潜の方向に向けようとするが動かない。「加勢に来い」との大声で私もタラップをかけ上った。砲身が米潜に向き轟音と共に弾丸が発射された。
固唾をのんで見守る。弾丸は米潜の遥か後方に水柱をあげた。
2発目は近すぎた。米潜はゆうゆうと浮上したまま速力をあげて逃げて行く。
追撃する「雉」が追いつけない。その時、昭益丸に備え付けた「2連装25mm高射機関砲」が「バリ・バリ・バリ」と水平射撃を開始した。米潜に火花が散った。
とたんに、白い船体は急速潜航。またひとしきり爆雷攻撃が続いた。
米潜の魔の手からはのがれたが敵にしたれた以上、空襲は避けられない。
薄暮になって昭益丸は引き返しはじめた。2度目のアンボン行きは軍艦「若鷹」だった。この時は航路を変えた。数年前からの紛争がやっと落ち着いている「チモール島」の西側を通ってアンボンを目ざした。後一日でアンボンという所で、これも前回同様、白昼に雷撃を受けた。このときも大変だったが武運つきず命をながらえた。
昭益丸が引き返し、再びマカッサルに上陸。わが隊はマロスに向かった。
ゼムバタン スンガイ マロス
JEMBATAN SUNGAI MAROS
マカッサルから20kmほど北上したところがマロス村である。
ここはわが隊がアンボン渡航の船を待って駐在したカンポン(村)である。宿舎は「林兼」のアルコール工場の近くにあった。広い広い農地を耕しアルコールの原料となるキャッサバ(タピオカ芋)を植付ける作業が続いた。
遠くに山なみが見えてきた。濃緑の山肌に、ところどころ石灰岩質の白い岩がのぞく。若い時に心に焼き付けた風景である。懐かしさがこみ上げてくる。再びマロスを訪れることができた。
案内してくれるインドネシアの方々の温かい心にふれた喜びと生きて再びマロスにこれた感動とが重なり胸が次第に熱くなる。
マロス橋に降り立ったとき感激は頂点に達した。
同行の好好爺然として、インドネシアの幼児がすぐなつく林田君が来る。
顔が紅潮している。ふたりは若者のようにカメラの前で肩を組んだ。
青雲の志をいだいた若者たちが、この地で、祖国の必勝を信じて無心に鍬を振るい汗を流した。汗と土にまみれた体をこの川で洗った。
56年が夢と過ぎ、老境に入ったこの身で、生きて再び、この地を訪れることができた。生かしていただいた喜びと感激で、橋のたもとの木々に乱れ咲く熱帯の鮮やかな深紅の花がかすんだ。
しばらくして、老戦友3名は声を合わせて、わが隊歌「南進男児の歌」を歌い始めた。ゆったり流れる川面の見つめて。若木日の思いをこめて。
南進男児の歌
1、君が剣の戦士なら
われは南の開拓士
共に明るい日本の
希望に燃える若き民
進め丈夫(ますうら)われ等こそ
南進日本の先駆だ
2、いまぞ男と生まれきて
拓け南の陸と海
使命栄えあるわが行途(ゆくて)
輝く南十字星
進め丈夫(ますうら)われ等こそ
南進日本の先駆だ
3、赤道越えて今日も行く
祖国の歌よ日の丸よ
若き腕に脈打つは
世紀に躍る血の調べ
進め丈夫(ますうら)われ等こそ
南進日本の先駆だ
4、思え非常のこの秋(とき)に
*(びょう)たる身こそ捨てどころ
何を荒ぶか季節風
見よ新しき陽がのぼる
進め丈夫(ますうら)われ等こそ
南進日本の先駆だ
マカッサルから20kmほど北上したところがマロス村である。
ここはわが隊がアンボン渡航の船を待って駐在したカンポン(村)である。宿舎は「林兼」のアルコール工場の近くにあった。広い広い農地を耕しアルコールの原料となるキャッサバ(タピオカ芋)を植付ける作業が続いた。
遠くに山なみが見えてきた。濃緑の山肌に、ところどころ石灰岩質の白い岩がのぞく。若い時に心に焼き付けた風景である。懐かしさがこみ上げてくる。再びマロスを訪れることができた。
案内してくれるインドネシアの方々の温かい心にふれた喜びと生きて再びマロスにこれた感動とが重なり胸が次第に熱くなる。
マロス橋に降り立ったとき感激は頂点に達した。
同行の好好爺然として、インドネシアの幼児がすぐなつく林田君が来る。
顔が紅潮している。ふたりは若者のようにカメラの前で肩を組んだ。
青雲の志をいだいた若者たちが、この地で、祖国の必勝を信じて無心に鍬を振るい汗を流した。汗と土にまみれた体をこの川で洗った。
56年が夢と過ぎ、老境に入ったこの身で、生きて再び、この地を訪れることができた。生かしていただいた喜びと感激で、橋のたもとの木々に乱れ咲く熱帯の鮮やかな深紅の花がかすんだ。
しばらくして、老戦友3名は声を合わせて、わが隊歌「南進男児の歌」を歌い始めた。ゆったり流れる川面の見つめて。若木日の思いをこめて。
南進男児の歌
1、君が剣の戦士なら
われは南の開拓士
共に明るい日本の
希望に燃える若き民
進め丈夫(ますうら)われ等こそ
南進日本の先駆だ
2、いまぞ男と生まれきて
拓け南の陸と海
使命栄えあるわが行途(ゆくて)
輝く南十字星
進め丈夫(ますうら)われ等こそ
南進日本の先駆だ
3、赤道越えて今日も行く
祖国の歌よ日の丸よ
若き腕に脈打つは
世紀に躍る血の調べ
進め丈夫(ますうら)われ等こそ
南進日本の先駆だ
4、思え非常のこの秋(とき)に
*(びょう)たる身こそ捨てどころ
何を荒ぶか季節風
見よ新しき陽がのぼる
進め丈夫(ますうら)われ等こそ
南進日本の先駆だ